2009年05月

  1. 2009/05/02 タイムマシン
  2. 2009/05/04 非・パンデミック
  3. 2009/05/07 GW記
  4. 2009/05/07 √(ルート)
  5. 2009/05/08 KYTV
  6. 2009/05/11 3本立て
  7. 2009/05/13 夏の気配
  8. 2009/05/17 トム・ハンクス
  9. 2009/05/18 日曜深夜の憂鬱
  10. 2009/05/18 安直
  11. 2009/05/19 宝くじ
  12. 2009/05/20 一日
  13. 2009/05/21 希望の国の
  14. 2009/05/23 土曜日、午前7時35分
  15. 2009/05/27 冒険
  16. 2009/05/29 体調
  17. 2009/05/30 人生に第一も、第二もない。

タイムマシン

20年前に埋めたタイムカプセルを、開ける。

正直なところ、近々になるまで特別な感情は無かったし、1年前まではほとんど忘れかけていたことだった。

ただ、今は、そういう機会を与えてくれた環境に、感謝をしたいと強く思う。


20年という時を経て、当時の同窓生が集うということの意味と価値は、実際に立ち合ってみないとなかなか分からないことなのではないか。

もちろん、そんなものに赴かなかったとしても、「日常」はいつも通りに過ぎていくし、実際何の問題もないことだろうと思う。

でも、僕はそういう場面に立ち合えて、本当に良かったと思う。

当たり前のように、この二十数年を生きていたって、本当はそんなの全然当たり前ではなくて、総ての人共通に、「奇跡」に近い。

そういう年月を経て、20年前に埋めた「物」に再会する。

そこで実際に再会するのは、「物」ではなく、当時の「時間」そのものなのだと感じた。

同じく20年という時間を経て再会する人と人。

そこで生じる空気は、まさに20年前のそれだと思う。

小学校に入学したばかりの自分が、20年後を想像して書いた作文、デザインした学級旗。

それらも、もちろん価値のあるものだ。

しかし、それ以上に、時を経て少しばかり成長して存在する自分自身、そして同様に存在する友人たちと、改めて共有する時間ほど価値のあることはないと思う。


タイムカプセル開封式の後、同学年で集まって飲み会をした。

その冒頭、乾杯の音頭をとった友人が、「タイムカプセル」を「タイムマシン」と言い間違えた。

その時は笑って過ごされたが、実のところ言い得て妙だと思う。

タイムカプセルを掘り起こすという行為の上に生じたものは、

20年間の「時間」の逆行だ。

それはまさに擬似的な時間移動であり、「タイムマシン」に他ならない。


だらだらと駄文になってしまったけれど、

そういうことを根底に感じて、テンションが上がってしまって、

少々はしゃぎすぎた一日だった。

反省はするが、後悔は無い。

とても良い一日だった。


学級旗

非・パンデミック

豚インフルエンザの流行。
危機感を持つこと自体に問題は無いと思う。
でも、過剰で安易な警戒意識は、ただ無駄なパニックを助長するだけで、愚かしいと思う。
対応のアピールのように国務大臣が大袈裟に状況報告をしたり、“疑い”に対して過剰に報道するメディアの動きはその最たる物。
そういう公の動きが、一般の意識をいたずらに過敏にしている。
何の感染状況も無い国の、メキシコ料理店が風評被害にあったり、養豚業者が廃業に追い込まれたり、本当に問題とすべきことがから大きくずれている悲劇に対し、殊更に愚かしさを感じる。



と、いうことを、
街で散々飲んで、なぜか延々と歩いて(所々で自転車に乗りながら)家まで帰ってきてしまった後に見たニュースを聞きながら、思った。

ああ、頭が痛い。

GW記

ああ。ゴールデンウィークが終わった。

人生27年余りも生きてくると、5連休というものが瞬く間に終わってしまうものだということを、何度も経験しているので、覚悟はしていたのだけれど、やはり瞬く間だった。

どこかへ小旅行をしたかったが、周辺の宿泊施設はどこも一杯で、連休が始まる前に諦めた。

結局、何をしたかというと、「飲み会三昧」な5日間だった。

連休初日前夜、友達夫婦に突然カラオケに誘われ、飲んだ。
初日、彼女と街に出掛け、飲んだ。
二日目、高校時代の友人たちと集まり、飲んだ。
四日目、中学校時代の友人たちと集まり、飲んだ。

実際、飲み過ぎだと思う。流石に体がしんどい。

飲み以外では何をしていたかというと、

「クローズ」を番外編、「ワースト」含めて全巻読んで、
GOEMON」を観に行って、
結婚式で使う写真を選別して、
先日のタイムカプセルの時の写真をCD-Rに焼いて、
二日酔いで愛南町までドライブをした。

何をしたような、しないような。

まあ、それはそれでいいんじゃないかと思う。休日なんてものはそういうものだ。

√(ルート)

自分は、「数学が向いてなくて、嫌いだ」と思っている。

でも、きっとそれは、よく知らないままに勝手に固定観念として定着してしまった錯覚なのだと思う。

数字が苦手だと言いながら、

観た映画の感動に対して点数をつけ、スポーツ選手の記録達成に一喜一憂し、特別な日までの日数を感じる。

詰まるところ、幸福で魅力に溢れた人生を生きていく中で、「数字」というものは切っても切り離せなくて、その根幹に大いに関わってくるものなのだと思う。

その「真理」に近づけば近づくほど、或いは近づこうと試みるほど、もっと人生は充実するのかもしれない。

そういうことを、「博士の愛した数式」という小説を読んで、思った。


博士の愛した数式 (新潮文庫)博士の愛した数式 (新潮文庫)
(2005/11/26)
小川 洋子

商品詳細を見る

KYTV

父親が、光回線を利用したケーブルテレビの試聴サービスを契約してきたので、3ヶ月間ケーブルテレビが見られるようになった。

東京で一人暮らしをしていた頃、住んでいたアパートメントがケーブル契約をしていたので、必然的にケーブルテレビを見ていたことを思い出し、懐かしくなった。

「トムとジェリー」を観て、両親と3人で大笑いしてしまった。トムの超絶なタフネスさが笑えて仕方ない。
往年のアニメ番組は偉大だなあ、と思う。

テレビといえば、ついに自室のテレビが壊れてしまった。
音声は出るが、画面が全く映らない。
テレビ購入を先延ばしにしたところなのに、なんというタイミングの悪さだ。KY。

とりあえず、ケータイのワンセグで代用しているけれど。さて、どうしたものか。

3本立て

昨夜は、ものすごくバイオレンスな夢と、ものすごく日常的な夢と、ものすごくいかがわしい夢を3本立てで見た。

どれもものすごく濃い夢だったので、生々しさを覚えつつ目覚めた反面、とても眠りが浅かった。

昼過ぎまで、眠くて眠くて仕方なかった。

内容の濃い夢を見た日は、日中もずうっとその夢の印象が拭いされなくて、イメージが繰り返される。

いつかのひとりごとにも書いたが、それを具現化することが出来れば良いのにと思う。

残念ながら、そういう才能はないらしい。

散々夢を見続けて、果たして現実的な歩みしか得られない皮肉。

だからどうということではないのだけれど。

それが悪いとは決して思わないのだけれど。

夏の気配

日差しが強い。5月も半ば。もはや夏。

早過ぎる夏の気配の到来は、往々にして夏の本番を短くする。

あっという間に、夏が来て、

またあっという間に、夏が終わるのだろう。

早いね。相も変わらず。

もう少し、一日一日をじっくりと生きてみたい。

「生きる」時間に余裕など無い。

でも、余裕が無ければ、人生は台無しだ。

なんとむずかしいことか。

トム・ハンクス

5月も半ば。土曜の夜。

街の居酒屋で、彼女と友人とで飲んだ。

飲んで、酔って、「失敗したな」と思うことは多々ある(というかそういうことばかりだ)けれど、

総じて、そういうことは悪いことではないと思っている。

酒席の失敗で、すべてが台無しになるとしたら、それはどの道ウマくいかないことだ。

暴論かもしれないけれど、あながち間違ってはいないと思う。


帰宅し、インスタントの味噌汁と夕食の残りらしいパック寿司を食べた。

例によってテレビが映らないので、携帯電話のワンセグを起動させると、

広島の地方局のバラエティー番組が流れた。

なんとなく見始めると、意外に面白くて最後まで見てしまった。

番組が終わったので、チャンネルを変えると、

若いトム・ハンクスが、こちらも若いダン・エイクロイドと共演している映画が映った。

昨日、トム・ハンクスの最新主演映画を観たばかりだったので、殊更に新鮮だった。

ネットで調べてみると、それは22年前の映画だった。

22年前のトム・ハンクスは、将来自分が2度も(しかも2年連続で)アカデミー主演男優賞を獲得するなどと想像しただろうか。

一介のコメディ俳優がハリウッドきっての大俳優と成ることも、
その様を映画を通じて目の当たりにすることも、
小さな島国の飲み屋で酔っ払って感情的になることも、
たまたま見たちっぽけなバラエティー番組にほんの少し感動することも、

根本的に秘める「価値」にそれほど大きな差は、実はないのかもしれない。

知らない人は一生知らないだろうし、感じない人は何も感じない。

詰まるところ、すべての物事は個々人の「価値観」に委ねられる。

人類という種。その各個が持つ「価値」。

その事実以上に素晴らしいことは、実際無い。

なぜなら、すべての「素晴らしいこと」は、そこから始まるからだ。

日曜深夜の憂鬱

自分の信じることしか、したくない。

「情熱大陸」で、気鋭の映画監督が言った。

間違っていないと思う。

他のことをする暇などない。

ずうっとそう思っている。

安直

新型インフルエンザの感染を伝える報道、

感染者が出た高校の関係者を電話取材する記者が、これ見よがしにマスクをしていた。

なんだかな、と思う。

感染が拡大していく現状は、そりゃあ危惧するべきものだとは思う。

ただメディアの過熱ぶりは、少々安易で過剰だと思う。

報道に対して後手にまわる行政の対応も問題だが、

それを尻目に危険、危険と騒ぎ立てるメディア、

それに乗って、これまた危険、危険と大騒ぎする国民、

詰まるところ、この国自体があまりに安直過ぎる。

本当に破滅的な危機が訪れたとき、一体この国はどうなるんだろうと思う。

宝くじ

宝くじが当たった。夢じゃないかと何度も確かめた。当選番号を紙に書き写したりして、何度も確かめた。

間違いなく当選していた。

どうしよう。何を買おう。と、思った。




という夢を見た。




実際に何億という金額を手にしたら、人生が狂うなどとよく言うが、

きっぱり、狂わない自信がある。

なので、ください。

一日

何も無いような「一日」の中でも、何かしら物思うことは多々あって、

「ああ、今日はこのことを書こう」と、思うのだけれど、

実際この時間になると、何を物思ったか、すっかりと忘れてしまっている。

結局はそういうことだと思う。

顧みると特に何もない日々が続いているように感じるが、

実際そんなことなくて、「色々なこと」を忘れてしまっているだけだ。

忘れてしまうくらい印象が薄いことばかり、とも思ってしまうが、たぶんそうではない。

些細な物事を思い留められない自身の感受性に問題がある。

何を感じ、何を感じないかは、詰まるところ自分次第。

何事に対しても、イチイチ感じ入る人間でありたい。

希望の国の

「この国には何でもある。だが、希望だけがない」

今日読み終えた村上龍の小説の中に登場する中学生が放った言葉だ。

慢性的な金融危機の中、あらゆる側面で退廃していく「日本」。

退廃的なこの国の、愚かなしがらみから逃れようと義務教育を放棄する中学生たち。

日本という国が、金融的な面でも、生産的な面でも、精神的な面でも、

「危機」を迎えているということ。それは確かなことだと思う。

そして、最も危機的なことは、そういう「危機」を皆認識しているのに、具体的な動きを見せないこの国自体の愚鈍な意識そのものだとも思う。


ただし、その現実イコール「希望がない」のかというと、実際それはよく分からない。

まさしくその通りだと思わなくもないし、それは違うと言えなくもない。


すべての人が、淡々と必要最低限のことを効率よく得ようと動いたとしたら、きっと無駄のない理想的な社会環境が構築されるのだろうと思う。

しかし、そこに生きるのが人間である以上、そういうわけにもいかない。

愚かなことだと分かっていても、欲望は止めどないし、妬みもするし、憎みもする。

残念ながら、人が「生きよう」とするためには、そういった要素が少なからず必要らしい。

それが人間の宿命というものらしい。

ただ、そういう善くも悪くも「感情」があって初めて、「希望」というものは生まれると思う。

世の中は、いよいよ混沌としている。

でも、そこに生きる人間がいる以上、希望は無くなることはないのかもしれない。


悲観的な現実の中で、盲目的だろうが何だろうが、それでも光を求め続けようとしなければ、

それこそ、「生きる」意味なんてない。


希望の国のエクソダス (文春文庫)希望の国のエクソダス (文春文庫)
(2002/05)
村上 龍

商品詳細を見る
人間が「生きる」以上、「希望」はなくならないのかもしれない。

土曜日、午前7時35分

ゆっくりと朝寝を楽しむつもりだったが、平日より早い時間に目が覚めてしまった。

このところ、こういうことが多い。

休日なのに早起きをしてしまう。子供のようだ。

子供のように、“お休み”が嬉しくて、気分良く目覚められたのならそれにこしたことはないが、

夢の中から胃腸が痛くて、目覚めると同時にトイレに向かうという調子の良くない目覚めには、

とてもじゃないが、ポジティブにはなれない。


P.S.一昨日の「アメトーーク」で“スナック菓子芸人”というのをやっていて、懐かしくなったので、昨夜はビールのつまみにと「おっとっと」を買ってきた。

レアらしいクジラ型(パッケージのキャラクター)を見つけて、少々はしゃいだ。

Image0701.jpg


冒険

先日、「ザ・ムーン」というドキュメンタリー映画を観た。

アポロ11号の月面着陸から40年。

「人類を月へ送る」というJFKの大号令に端を発した「アポロ計画」の真実を綴った映画だった。


「月面着陸」以降、人類は「冒険」をすることを忘れてしまった。

世界は、物質的にも、精神的にも「退廃」という言葉が見え隠れする。

有史以降、人類の成長は「冒険」によってもたらされたと思う。


藤子・F・不二雄のSF短編に、「老年期の終わり」という作品がある。


遠い未来、宇宙開発の最果ての末、人類は「種」としての「老年期」を迎え、ゆっくりと絶滅への道を歩み始めていた。


「未知」への渇望とそれに伴う冒険を止めてしまったとき、人類は種としての行く末を見失う。


藤子・F・不二雄SF短篇集 (1) 創世日記 中公文庫―コミック版藤子・F・不二雄SF短篇集 (1) 創世日記 中公文庫―コミック版
(1994/09)
藤子・F・不二雄

商品詳細を見る
われわれからずっと前に失われたものが、ここにあった。

体調

健康であるのにこしたことはないけど、なかなかそうもいかぬもの。

他人からは、「意外」と思われるかどうか知らないけど、

大なり小なり常に何らかの「問題」は抱えている我が身体。

腹痛とか、鼻炎とか、歯痛とか、慢性的なものもあるので、

「万全」なんてことは、生まれてこのかた一瞬たりとも無いと思う。

まあ、それでも人生の9割以上は「元気」なのだから、それでいいとは思う。

久しぶりに「アウトブレイク」を観て、ダスティン・ホフマンが若いなあと思いつつ、ウィルスの怖さを感じる。

明日は健康診断。

人生に第一も、第二もない。

元ダイエー大越氏 高校指導者に認定(Yahoo!ニュース)

プロ、アマを総じて、日本のスポーツ選手における「引退」後の行く末という物は、決して楽天的なものではない。

もちろん、スター選手として現役時代に名声を得た人達が、指導者、またはタレントとして活路を見出せることは周知の事実だ。

が、そうではない多くのスポーツ選手が、その後の人生において明確な「活路」を見出すことは、“スポーツ選手”になることと同様に、非常に困難だ。

プロ野球界においても、そういったことは例外ではなく、

解説者やプロ野球団のスタッフ、タレントと煌びやかな第二の人生を送る何倍もの人達が、それ以外の人生に向けて、努力を続けている。

そいうことを、このニュースは伝えてくれている。

大越基といえば、甲子園出場校のエースとしてならし、当時のダイエーホークスに1位指名されるも、投手としては日の目を見ず、早々に外野手に転向。プロ野球人生のほとんどを代走、守備要員として捧げた選手である。

ただ、そのプロ野球選手としての苦闘の日々が、今の彼を形成していったのだろう。

現役引退後、即座に指導者への道を志し、高校の教員免許を取得。
元プロ野球選手が直接アマチュアの指導者にはなれないという規定を乗り越えて、ついに高校野球の指導者として認定された。

プロ野球選手になるも、全くハイライトを浴びずに、人生そのものを落ちぶれていった人達も多い。
そんな中で、明確な意志のもと、自分自身の存在を確立していった大越氏の歩みは素晴らしいと思う。

実際、「人生」に“第一”も“第二”もないと思う。

あるのは、ただひとつなぎの一つの人生だ。

スポーツ選手への“憧れ”が、その「一生」そのものであってほしい。

と、スポーツファンとしては、強く願う。

  Template Designed by めもらんだむ RSS

special thanks: Sky Ruins, web*citronDW99 : aqua_3cpl Customized Version】