ひとりダ・ヴィンチ

  1. --/--/-- スポンサーサイト
  2. 2015/02/26 ゴールデンスランバー(5年ぶり3回目)
  3. 2014/07/05 狂気的で幸福な映画化
  4. 2012/04/05 浅はかな感動の裏側
  5. 2011/12/07 死神
  6. 2011/11/26 禁断の果実
PREV→

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ゴールデンスランバー(5年ぶり3回目)

午後11時半、三たび読み返していた「ゴールデンスランバー」の最後の数十ページを読み進める。

就寝時刻の午前0時半になる前に読み終わり、殊更に満足感を得る。

この娯楽小説を読むのは三度めだったが、やっぱり面白かった。

先日映画版を観直したばかりだったが、

映画作品には映画ならではの良さがあり、原作小説には文体ならではの良さがある。


映画を観終えると、小説を読み返したくなる。

小説を読み終えると、再び映画を観返したくなる。


この原作小説と映画化作品の幸福な関係性は、とても稀有なものだと思う。



ゴールデンスランバーゴールデンスランバー
(2007/11/29)
伊坂 幸太郎

商品詳細を見る




タイトルとなっている「ゴールデン・スランバー」は、ビートルズの解散間際の一曲。

今夜はこの“子守唄”を聞きながら眠ろう。



スポンサーサイト

狂気的で幸福な映画化

忌々しい高揚感がおさまり切らない。

そんな、「映画」を観た翌日に、その原作小説の文庫本を衝動買い。

二日で読了した。


あの特異な映画世界が、そのまま文体で表現されているとは端から思っていなかったが、

想像以上に、映画は独自のアレンジを展開していたのだということを知った。

肝となる筋、主立った登場人物の言動は概ねそのままだが、

この「小説」と「映画」は、まったく「別物」と言ってしまってもいい。


暗く深い情念を突き詰めた小説は、見事だったと思う。

事前に基本的なストーリーも、重要なオチも知っている状態でありながら、

一気に読ませた文体の熱量は凄まじいと思える。


ただ、あの「映画」を観た直後では、描き出される展開、そのテンションに、

物足りなさを禁じ得なかった。

物語の衝撃度において、映画の方が仰々しく見せていたというわけではないと思う。

ストーリーのエグさについて言えば、小説の方がよっぽどエグく、救いが無かった。


ただ映画の方が、キャラクター描写の多様さと、物語の核心である“加奈子”の悪魔性が際立っていた。

そのことが、果てしない渇きと絶望を終始突きつけながら、

唯一無二の“エンターテイメント”を構築していたと思える。


詰まるところ、紛れもない問題作の映画化にあたり、

その原作に依存すること無く、より自由で、より爆発的に、光を与えてみせたということだと思う。

それは、とても狂気的で、とても幸福な映画化と言えよう。


もちろん、もし原作小説を先に読んでいたなら、

まったく逆に印象を持ったのかもしれないけれど。




果てしなき渇き (宝島社文庫)果てしなき渇き (宝島社文庫)
(2007/06)
深町 秋生

商品詳細を見る

浅はかな感動の裏側

小説は衝動買いすることが多い。

逆に、あらかじめ読む段取りを立てて購入した小説は、中々読み始めなかったり、読み終えるまでに長い時間をかけてしまうことがしばしばある。

漫画家の西島大介によるカバーイラストに惹かれて、

「陽だまりの彼女」(越谷オサム著)という小説の文庫本を衝動買いして、サクッと読了した。


まずはじめに言っておくと、「満足」には遠い小説だった。

ファンタジー的な要素を盾にしたチープな作品だったと言わざるを得ない。

文庫本の帯には、

「女子が男子に読んでほしい恋愛小説 No.1」だとか、

「完全無欠の恋愛小説」なんて文句が添えられているが、

それらは甚だ的外れで、そのインフォメーションが作品に対する違和感をいたずらに助長しているように思えた。


“恋愛小説として前代未聞のハッピーエンド”というものが、

この物語の最大の売りであり、賛否の焦点になっているようだが、

個人的な感想としては、その焦点そのものがズレまくっているような気がしてならない。


この物語は、ハッピーエンドでもなければ、恋愛小説ですらない。

物語の中盤で「まさかこういうオチなわけはないよな」という思いが浮かび、

結局、その通りのオチだった顛末を迎えて感じたことは、

「落胆」ではなくて、「恐怖」だった。


少々ネタばれになってしまうかもしれないけれど、

これは長く切ない妄想に陥り、そこから最後まで抜け出せなかった一人の男の姿を描いた“ホラー”だ。

少なくとも、僕にはそう思えて仕方がない。

インフォメーションの通りに「恋愛小説」だと言い張るのならば、

たとえファンタジーという要素を踏まえても、

あまりに甘ったるい上に、腑に落ちない点は多く、はっきりと駄作に近い。

だが、可愛らしいファンタジーの仮面を被った世にも不思議な「恐怖小説」だと言うのならば、

執拗な甘ったるさや唐突で軽薄な数々の描写も、非常に巧妙な伏線に見えてくる。

浅はかな感動の裏側に「真実」が垣間見えた時に生じたものは、

切なくて、悲しくて、ある意味おぞましい恐怖だった。


実際、この作者の本当の意図が何なのかは知らない。

作者の作風に関する論評を見る限りでは、穿った見方をした上での偶然の産物である可能性が高い。

しかし、捉え方によって、物語自体がまったくの「別物」になるという点において、

少なくとも議論のしがいはある小説だと思う。

(この文庫版でカバーイラストに西島大介を起用している意味を深読みすると、あながち僕の想像は外れていないと思うが……)



まあそういう物語の本質に対する是非とは別にして、

どういう形であれ、あれほど愛し合っている夫婦が、

すぐその先に陽炎のように見え隠れする「別れ」を前にして言葉を交わすクライマックスは、

問答無用に涙が溢れた。

満足はしないが、それだけで充分とも言えなくもない。


陽だまりの彼女 (新潮文庫)陽だまりの彼女 (新潮文庫)
(2011/05/28)
越谷 オサム

商品詳細を見る

死神

クリスマスが近づく。ふと、ディケンズの「クリスマス・キャロル」のことが思い浮かんだ。

何歳の頃から忘れたが、或る年のクリスマスに「クリスマス・キャロル」の仕掛け絵本をサンタクロースから貰った。

仕掛けもさることながら、描かれている絵柄自体が外国の絵本独特のタッチで、子供心には少し恐ろしく、だからこそ惹き付けられた。

あの物語の中で、クリスマスの前夜に、傲慢な寂しい老人“スクルージ”の前に現れたのは、

“死神”だったっけ?“悪魔”だったったけ?“天使”だったったけ?

ということを幼い頃の思い出と共に思い巡らせながら、

伊坂幸太郎の「死神の精度」という小説を読んだ。


“死神”というモチーフ自体が、どうしても幼稚に思えてしまって、方々で好評を見聞きしつつも敬遠していた。

愛妻が、繰り返し「伊坂作品の中ではこれが一番良い」というので、

満を持して、いつもの中古本のショッピンサイトで購入に至った。


「短編集」というよりは、“死神”という同一のキャラクターを狂言回しとして、時空とジャンルを超えた様々な世界観を描いたこの作家らしい「連作」だった。

誰しもに平等な「価値」をもって訪れる「死」が、“死神”というキャラクターの目線で描くことで、必然的な客観性をもって冷静に、辛辣に表現される。

いたずらに感傷的に描かないことで、「死」そのものの存在が際立ち、上質な人間ドラマが象られていたと思う。


そもそも「死神」という概念は、「死」という現象をどこまでも恐れ、突き詰め、受け入れようと永遠に思いめぐらせる人間らしいものだと思う。

思考の中で具現化することで、どうにかして「死」の恐怖を受け止めようとした人間の一つの試みなのだろう。


それは、他の生物から見ればとても「無意味」なことに思えるだろうけれど、

その人間の“怯え”こそが、すべての営みと文化の根源なのかもしれないとも思う。



クリスマスや年末に直接関係性があるわけではないけれど、何となくこの時季に読むに相応しい小説だったなあと思った。


ああ、「クリスマス・キャロル」でスクルージの前に現れたのは、

死神でも、悪魔でも、天使でもなく、

「精霊」だった。



死神の精度 (文春文庫)死神の精度 (文春文庫)
(2008/02/08)
伊坂 幸太郎

商品詳細を見る


禁断の果実

“クローン”という言葉が、小説や映画で取り上げられ、

ついには現実社会のトピックスとして耳にするようになって久しい。

もはや大概の一般人が、その「技術」の大体の仕組みはイメージ出来るくらいに、浸透していると思う。

同時に、それが「禁断の領域」であることも多くの人が理解している。

でも、明確にその技術を“禁ずる”動きはあまり見られない。

それは、“クローン”によってもたらされる「成果」が、

同時にもたらされるだろう人間にとって破滅的な「代償」の存在を見失わせるほど、

悪魔的な魅力に溢れているからだろうと思う。



スポーツクラブから帰宅した金曜日の深夜、

クライマックスを残していた東野圭吾の「分身」という小説を最後まで読み終えて、

掴みかけた最先端の技術に翻弄され、破滅に突き進もうとする人間の愚かさとおぞましさ、

そして、それらと共存する生命の崇高さを感じた。


禁断の最新技術に溺れる人間の様を愚かしく思うと同時に、

果たしてそれを真正面から否定出来る者などいるのかと懐疑的になった。

新しく、不確かなものを否定することは容易だ。

しかし、すでに僕たちは、有史以来様々な「最新技術」によって生かされている。

あらゆるものを踏み越えてこなければ、今の世界はあり得なかったとも思う。


小説のラストで、“クローン”として生み出された二人の主人公は、新たな道を前にレモンをかじる。

それはまさに現代における“禁断の果実”の象徴のように思えた。

“禁断の果実”を口にしたアダムとイブを、この地球上に生きるすべての人間は否定出来ない。



どうあがいても、その先には破滅しかないのかもしれない。

それでも、生命として存在する以上、その道を進むしかない。


分身 (集英社文庫)分身 (集英社文庫)
(1996/09/20)
東野 圭吾

商品詳細を見る

  Template Designed by めもらんだむ RSS

special thanks: Sky Ruins, web*citronDW99 : aqua_3cpl Customized Version】


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。